監督として愛された星野仙一氏

人物

最終更新日 2024年11月19日 by obliok

「星野仙一氏のことをたくさん知りたい」
「星野仙一氏の現役時代の活躍に興味がある」
「星野仙一氏の名言や生き方に憧れている」

野球監督には記憶に残る人物が多く、中には歴史に名を残す名将や、その強烈なキャラクターで伝説になった監督などもいます。
野球監督といえば星野仙一氏の名前を憶えている人も多いのではないでしょうか。
星野仙一氏はプロ野球選手からタレント、そして監督への道を進み、コメンテーターとしても活躍した人物です。
歯に衣着せぬコメントで魅了し、その実力で監督になってからも多くの野球選手を導きました。
独自の言動は選手の心を掴む一方、闘志を隠さない態度は恐れられることもあったとされています。
一方で気配りの人であることも知られており、心遣いによりたくさんのファンから愛されています。

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INFLUX代表の星野敦

星野仙一氏の生い立ち

星野仙一氏は1947年1月22日に岡山県児島郡福田村に生まれましたが、誕生時にすでに父親の仙蔵氏はがんで他界しており、母子家庭の息子に育ちました。
父親の顔を知らず母の手で育てられた星野氏が野球を志したきっかけは小学4年生の時、姉に連れられて行った高校野球とされています。
高校は岡山県立倉敷工業高等学校への進学を希望していたものの、岡山県立倉敷商業高等学校へと進路を変えました。
岡山県立倉敷商業高等学校は1963年に行われた夏の岡山大会では準決勝まで進み、岡山東商を相手に戦いを繰り広げています。
星野氏の進学とともに力をつけた岡山県立倉敷商業高等学校は、大会でも好成績を残すようになりました。
しかし、翌年の夏も東中国大会の決勝まで進んだものの、いま一歩のところで破れ、結果的に甲子園には出場していません。
高校卒業後の星野氏の進路は明治大学政治経済学部経済学科へと進められ、ここでも野球部に入部しています。

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明治大学の野球部で一軍メンバーでノーヒットノーランを達成

明治大学の野球部においても高校と同様にエースの地位を築き、一軍メンバーでノーヒットノーランを達成するなど目覚ましい活躍を見せていることを忘れてはいけないでしょう。
ただしここでも残念ながら強力なライバルに阻まれて大会に優勝までには至らず、1968年、4年生の時に行われた秋季リーグでは3位に終わっています。
大学当時の星野氏のライバルに挙げられるのは、後にプロ野球でも活躍した田淵幸一氏や山本浩司氏、富田勝氏が率いる法政大学、谷沢健一氏らが在籍していた早稲田大学野球部でしょう。
いずれも大きな活躍を見せるライバル達であり、優勝には届かなかったとはいえ才能の中で切磋琢磨を繰り広げた経験は星野氏にとって大きな財産になったのかもしれません。
1968年、水原茂監督が率いる中日ドラゴンズは、プロ野球ドラフト会議において星野仙一氏に1位氏名を行いました。
これにより星野氏は中日ドラゴンズに入団し、プロ野球選手への道を歩むことになります。

星野氏自身は中日ドラゴンズではなく阪神ファンだった

面白いのは星野氏自身は中日ドラゴンズではなく阪神ファンだったという点でしょう。
当時の阪神タイガースと自身が在籍していた明治大学の軋轢により阪神タイガースで活躍する星野仙一氏を見ることはありませんでしたが、もしも氏が阪神に入団していたらプロ野球の歴史はまた少し変わっていたかもしれません。
プロ野球選手としての活動を本格的に始めた1年目、49試合に登板して8勝の成績を残しています。
3年目には中日ドラゴンズのエースナンバーである20番へと背番号も変更され、名実ともにエースの道を歩み始めます。
その活躍は14年間の長期にわたって続き、1971年に肘を痛めて以降も変化球を駆使するリリーフの働きを見せてるのもファンにとっては忘れられない記憶でしょう。

プロ野球選手時代の星野氏は巨人キラー、阪神キラーとして活躍

プロ野球選手時代の星野氏は巨人と阪神に強いことで知られており、巨人キラー、阪神キラーとしての活躍をしました。
その後は1983年から1986年までの期間を野球解説者として務めている他、日刊スポーツで野球評論家の名前でも活動をしています。
また、サンデースポーツスペシャルの初代ニュースキャスターでもあり、多方面での活動はタレントおよびコメンテーターの才能を見せています。
たくさんの才能を持ち、それぞれの分野で異なる顔を見せる星野仙一氏ですが、もっとも愛され、そして記憶に残っているのはやはりユニフォームを着た監督の姿ではないでしょうか。
特に中日ドラゴンズのユニフォーム姿は鮮烈で、活躍とともに多くの人が記憶しています。
監督就任後、1991年には初めて開幕戦に勝利を飾りますが、同年9月24日に健康上の理由を表明して辞任しています。
1995年9月20日に再び中日の監督へと復帰した後、たくさんの試合を指揮し、華々しい活躍を見せているのも星野氏の魅力の一つでしょう。

まとめ

中日ドラゴンズの監督を引退後は2001年12月17日に阪神タイガースの監督に就任し、健康上の不安を抱えながらも2003年まで指揮を続けています。
2007年には北京五輪監督、そして2010年には楽天の監督に就任するなど活躍を続けた星野氏は、膵臓がんなどの悪化を受けて2018年1月4日に死去しています。
数多くの野球ファンを魅了し、野球一筋に生きた名監督です。